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書きたいことがないのに記事を書くということ

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小説とブログのそれぞれの「書く」

 このブログは1ヶ月超ぶりの更新となる。

 始めてから1ヶ月の間はほぼ毎日更新していた。

 が、飽きた。それは認めよう。この失速は紛れもなく飽きたからであり、例えば国歌の最重要機密に触れたために秘密警察に追われているとか、地獄から甦ったナチスの残党とすさまじい戦いを繰り広げていたとか、滅亡の危機に瀕した地球を救うための犠牲になったとか、そういうことは一切ない。

 人類に許された権利の一つである、「飽きる」という結末に至っただけの話である。

 

 重要なことはすでに述べた。ここから先は飽きた先で感じたものについて触れていくことにする。

 飽きた理由は何かって?

 そんなものはない。もっともらしい理由を付与するのは可能だろうが、そこにいくばくかの価値があるとは思えない。

 強いて言うならば、ブログを更新するより小説を書いている方が苦しいけど楽しいことに気づいたのだ。


 まあ、こうして久々にでも更新するだけあり、ブログにはブログの楽しさや自己発露の快感がある点は認めなければなるまい。

 小説が積み木で作ったものを見てもらいたい欲求だとしたら、ブログは積み木そのものを見てもらいたい欲求なのではなかろうか。

 自己承認でも色合いが違う。小説はナルシストで、ブログは露出狂なのだ。

 うん、このたとえはイミフだった。すまない。

 

書く理由の喪失

 飽きた理由はどうでもいいが、書かない理由を次に考えてみる。この二つは似ているようで違うため、思考してみる余地がある。

(思考してみるなんて書いちゃってるよ、バカだね)

 私の内なる声がそう軽侮してきたが、無視することにする。

 格調だけは高く、頭と腰は低くするのが本ブログのスタイルである。そのスタイルも10記事ほど前に決めただけだが。

 

 書かないのは書く理由がなかったからだ。

 書く理由がないとは、書くだけの動機を得られなかったからだ。

 つまり、モチベーションの向上――より分の良い動機付けが行われなかった。

 人間は内発的動機づけがなければ、そうそう動かないものだ。外発的な餌だけではいずれ疲れる。止まる。そうして、習慣となって根付く。書かないという習慣が。

 

 私はいつも願っている。

 何を?

 自分の生み出す文章が、その文体が、その内容が、星空のごとく無限にも思えるほどの競合作品と差別化され、独自の道を歩んでいることを願う。切願する。哀願だってしている。

 それだけ特別であってほしいと切に思うが、かといって書き散らすのが嫌いかというとそうでもない。むしろ、ガンガン書いてしまう方だ。今日の記事だって思い立ったから書いた。

 こんなもんで良いと思っている。

 だからこそ、書く必要がない時に無理に書くべきでもないと思っている。

 

きみは書かなければならないから書くのか?

 ブログを書く目的は何だろう?

 私は先述の通りに露出狂的なものから来ている。たまには見せないと気持ちよくならない。

 変態か?

 まあ、変態ではないという答えは限りなくゼロだろう。

 しかしながら、そもそも情報を発信する媒体としてのブログなんてものは、多少の変態的精神がなければ続かないのではないかと思う。

 

 考えてみればいい。

 ブログを毎日更新してマネタイズしたい。1日に1000文字~2000文字はあるボリューミーな記事をアップして、上に上に進もうとする。

 欲を言えば、1日2記事アップしたい。別々の時間にアップして、最適な時間帯を把握することができる。

 これで1日4000字。それも中身のある記事を揃える必要がある。

 ネタが続けばいい。引き出しがあるのはすばらしいことだし、引き出しの中身は使わなければ日々陳腐化していく。どんどん書くべきだ。

 

 ネタ、続きますか?

 そういうお話である。

 もちろん続かないから、アンテナを高く広く取ることになるだろう。グノシーやスマートニュースに登録してみたり、季節の記事や旬の話題の記事を書いてみたりもする。

 これらは初歩的な部分だろう。なぜなら私もやってみたからである。それで飽きた。疲れてしまったのだ。

 

 ブログを毎日更新しても疲れないならすばらしい!

 どんな記事でも、全く誰かの役に立たないということは少ない。

 どこかの誰かには届くはずだ。……閲覧してもらえるという前提なら。

 

 そう、想定した読者に読んでもらえるとは限らない。マネタイズをいろいろ試してみても雀の涙。どうして書いているかわからない。

 こいつはつらい。個人的にはさっさとやめた方が良いと思う。

 どうしてって、「創作は呪い」だからだ。

 

創るのは辛いけど楽しいし、楽しいけど辛い

「文章なんてもんをものづくりと一緒にしちゃあいけねえや」

 そういう向きもあるかもしれないが、やはり頭の中から言語をひねくりだすというのは消耗する行為なので、創作の一部とさせてもらう。

 人の心に届く文章を紡ぐという意味においては、小説にせよエッセイにせよブログにせよ大差ない。すごい人間は何も考えず書き散らかした文章がダイレクトに読み手のハートを打つが、私たち凡人はとにかく考えねばならない。どうすれば、新鮮な気持ちを直送できるのかと。

 残念ながら、死んだ文章は食えたもんじゃない。活字に飢えている層だってぷいと顔をそむけるものを、どうして一般層が読んでくれるだろう。

 

 先にも書いたが、創作は呪いなのだ。一度魅了されたら離れられない。思い通りのものが作れないとストレスになる。胃は痛む。心臓がおかしくなる。目が乾く。歯がすり減る。

 しかも、より良いものを作りたいと思ってしまったらもうダメだ。

 良いものを。もっと良いものを。そう願いつつ摩耗していく。

 どうすればこの茨の道を歩けるかというと、その辛ささえも楽しくなれるかどうかだ。

 好きこそものの上手なれとはよく言ったもの。半端な義務感でこの道を選んでしまったら、ただただ薄皮を剥ぐ毎日が続く。もう外でデータ入力のアルバイトでもしていた方が健全である。

 

 本田宗一郎は言った。

「嫌いなことを無理してやったって、仕方がないだろう」

 それこそ月30万、40万と稼げているならともかく、あるいはノンアドセンス・ノンアフィリエイトで収入とは無縁ながらも月50万PV、100万PVと伸びているならともかく、とても芽が出ないようならやめた方がいい。

 もちろん、こんなネットの片隅にあるブログの言うことなんて聞けるかという気持ちも出るだろう。

 だが、片隅だって一隅なのだ。意思の花はどこにでも咲く。その花に価値を見出すかどうかはPV数に左右されない。

 

創作者に祝福を

 重ねて言う。創作は呪いなのだ。

 試しに一度ぷっつりとやめてみるといい。それでも、どうしても書かなければならないという気持ちがぐいっと出てきたら、もう書かずにはいられないという気分になったのなら、そこで舞い戻ればいい。今の私がそうだ。この文章がそうなのだ。

 自分で行動を律することだ。小説の原稿やブログの空白に自分を操縦されるのは馬鹿げている。

 

「いいや、お前なんかに従えないね。今は書きたくて書きたくて仕方ないんだ。さあ、ここから出ていってくれたまえ」

 本稿を読んでそう思ったのなら……おめでとう!

 貴方は創る人だ。創らねば生きていけない人だ。残念ながら、それは優れているというよりもむしろ劣っている。なぜなら、創造が人生に不可欠だからであり、凡百の創造は巷に山のようにあふれている。

 それでも、私は貴方の御入来を歓迎する。同時に、強烈な闘争心を燃やす。作ったものの質でも量でも負けたくないと念ずる。

 

 そして、作る。

 先行者はいないだろうかと怯えながら。

 出来はどうなるだろうと恐れながら。

 普通の生活を謳歌する人からすれば、「もっと有意義なことに使えただろうに」と言われるほどの時間を費やして。

 

 創作者に祝福を!

 されど、その祝福は単なる祝福ではなく、二度と手放せない呪詛となる。

 でも、いいではないか。そういう道を選んだのだ。

 どうせ人間、何かの椅子に縛られる。会社であったり、思想であったり、家庭であったり、血縁であったり……。

 文句を言いたくなることもあろうが、もう後には戻れない。何かを言う暇があったら、手を動かした方が稼げる。何もない空間から金を生みたければ、不動産でも買うしかないのである。で、そういう金があるなら元々困らない。

 

 結局、生きるために金が必要だと考え始めると、一日のうちの大半を金のことを考えているという拝金主義者になる。実のところ、貧乏ほど拝金主義がはびこりやすい。貧すれば鈍するせいで、自分が何をして食っていくかもおろそかになる。

 貧乏はつらい。創作さえできなくなる。人間、自分を縛り付けるものは少ない方が良いに決まってる。

 火葬場までの人生、体は軽い方が良い。一度これと見定めたなら、そこに課題と目標を設定した方がきっとうまくいく。ここまでいろいろ手を出してみた感想だ。

 もっとも、見定めるまでは結局いろいろやらなければならないが。

 

自分の道を探すのだ

 だが、そういう自分探しならぬ「自分の道探し」は楽しいものだ。少なくとも、誰かに強制されてやる何かよりずっと楽しい。書きたいことがないなら、ブログなんて書く必要はない。放り出してしまえ。

 もし、この記事を読む人に、いじめやうつ病や難病で死ぬことを考えている――そんな抜き差しならない事態になっている方がいたとしよう。

 すでに書いた通り、「自分の道探し」は楽しい。生きてみるだけの価値はある。だが、「自分探し」はやめた方がいい。自分はそこにしかいないからだ。この記事を読んでいる貴方がまさしく自分だ。誰かが運んできてくれるものは、結局誰かの借り物でしかない。

 道というのは良い言葉だ。ミチにしてもタオにしてもロードにしても含蓄がある。その道が常に歩きやすいとは限らないが、それでも死ぬよりはだいぶマシだ。死ぬのは痛いし苦しい。楽に死ねるなんて思わない方が良い。死にかけるとわかる。

 どうしても死にたいという思いに囚われているなら、薬を飲むといい。希死念慮は薬で改善が可能なケースがある。その思いは脳機能の異常だ。精神病とか狂っているとか思わなくていい。脳の異常なのだ。貴方は悪くない。

 

 さあ、長くなってしまった。

 もう何かをする気になったのなら、こんな記事に滞在する必要はない。さっさとこのページを閉じて自分のことを始めた方がいい。

 まだ何も見つかっていない?

 私にはどうしようもない。自分の道は自分で探した方が良いのだ。こういうのもあるよと勧められると、ああそうかと感じてしまうだろう。共感である。それは自分本来の意志を曇らせる。

 

 もっとも、本当に「自分」というものが存在するのか。そうした問いを持っていることも事実だ。

 ただ、こういう疑問は現状の科学では解明できていないし、どちらかというと哲学者や宗教家に任せるべき課題ではあるだろう。

 ひとまず私たちは「自分らしきもの」があることを認識しつつ、そこにある自我的なものの導きに従って歩む他にない。

 そろそろ本稿にもうんざりしてきた?

 すばらしい。それが自我であり、自己判断だ。

 

4行で本稿をまとめる

 書きたくないなら、書かなくてもいい。

 読みたくないなら、読まなくてもいい。

 自分の道を進むのだ。

 それが人生ってもんだろう。

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