自惚的読書のススメ
他動的読書とは?
こういう記事があった。
なるほど、環境によって読書欲求、活字欲求とでも言うべきものが他者の好みによって制限される。あるいは規定される。まさしく他動的読書ということなのだろう。
では、私はどうかと考える。いつもの自分語り欲求に流されるようにして、今回もつらつらと書き連ねてみよう。
活字は自惚れから始めた
私は読書が嫌いである。
あくまで好きか嫌いかの二元論で言えば、の話だ。
ただ、活字を貪るように読むことはない。乱読することもなければ、読んだ感想を積極的に誰かと共有したいと思わない。
小説は好きだが、漫画の方がより好きだ。
なぜか?
私は私の書く文章が好きだからだ。自分で書いた文章はまさしく自慰的快感を伴ってテキストエディタを文字で埋め尽くしていく。
これがたまらない。自分好みの文章を自分で作っているのだから、活字の地産地消である。ヒットしないわけがない。
もちろん、思い通りの文章を書けないこともあった。どうして自分には才能がないのだ、苦しまねばならないんだと懊悩した夜もあった。こんなものに価値があるのか。大勢の人を振り向かせるだけの価値が。彼らの人生から時間という兌換不可能な貴重品を奪う資格が。
そこから一歩進んで、今は「私が作ったもの以上にすばらしいものはそうそうない」という痴呆的高揚の段階にいる。
創作を始めたのは高校のころからだ。実在の人物を使って、ショートストーリーを作った。好評だったので、その後も書き続けた。不評ももらったけど、最初の成功体験がずっと背中を支えてくれた。やはり自分にとっての支柱の有無は大切だ。それも第一印象、ファーストコンタクトで支柱ができるかどうかはその後の運命に関わる。
私は常に自惚れとともに歩んできた。今もその渦中にあり、ゆえにこういう文章をごりごりと書いている。
ライトノベルからロシア文学まで
漫画は幼稚園のころから読んでいたが、能動的に小説に触れたのは中学生のころである。富士見ファンタジア文庫のスレイヤーズとオーフェンの二枚看板だ。ライトノベルである。
「わあ、小説ってこんなすばらしい世界なんだ」
と、開き続けることはなかった。決まったシリーズを読み終わったら、あとはまた小説への扉を閉ざし、漫画読みに戻った。自分が書く段階に達してもなお、読書量は増えなかった。
大学で池波正太郎作品に出会い、佐藤大輔作品を乗り越えて、チェーホフに傾倒した。ただ、「傾倒」というのもだいぶ盛った書き方だ。実際は「かもめ」と「桜の園」ばかり読み返していた。
どうにも、私は気に入ったものばかりを繰り返し堪能する性質があるらしい。これは今でも変わっておらず、気に入った料理は何度でも食べたいし、気に入った映画は何度でも見返したくなる。
アニメ映画の「イノセンス」などは100回以上は見たのではないか。
ああ、でも、好きなのにあまり繰り返して読んでないのは、ソローキンと筒井康隆があるかな……。「青い脂」も「虚構船団」もすごく堪能したのに、たぶん2回3回ぐらいしか読み返していない。
活字が苦手なんだろう。自分で書いているくせに。
かくて自惚的読書
私の読書の根底には常に自惚れがある。自分の方がもっとやれるという自愛がある。
バカな話である。実際にはそうじゃないから、私は今でもアマチュアの物書きなのだ。それに、文章力よりも物語力を強くしないと、決して新人賞の山を乗り越え、作家としてのスタートラインに立つことなんてできない。
そもそもお前、ここ1年くらいまともに長編を書いていないじゃないか。
この一言で、私はノックアウト負けだ。ぶふっぶふっと肥満感がたっぷり詰まった呼吸をしつつ、Kindleで買った漫画を読み始めるだろう。
活字を読めよって?
「いや、活字って疲れるし……」
これである。じゃあ、ブログなんてやめちまえ、つーかこの記事なんて画像も何もなくて活字ばっかじゃねぇかと言われそうだが、これも全く正論なので、私はぶふっぶふっと言いながら競馬中継に逃避するだろう。ちなみに、今の時間はミッドナイト競輪が開催されているので、それを見ながらこの記事を書いている。
しかし、自分のスタイルというものを、最初に挙げた記事を読んで考えた。
そこで私の持っているものとはいったい何か。もしかしたら、「自惚れの向こう側にある純愛」なのではないか。
先述通りにイノセンスは100回以上見たし、劇場版パトレイバー2も30回は見た。押井監督ばかりじゃねぇかと言われそうなので、ちゃんと「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」も10回は見てるよと弁明する。
漫画もそうだ。横山光輝先生の「史記」は何度も何度も味わった。活字分野で言えば、上述したチェーホフの他に、「ミステリーの書き方」なんかを読んだ。日本推理作家協会が出しているものではなく、昔に書かれたアメリカ探偵作家クラブの方だ。ローレンス・トリートが編集している。
創作というものについて深く考え、今は浅く考えるようになったのは、この本のおかげだ。他の創作本にも共通することだが、「書き続ける」ことの大切さはじんと染み入ってきた。
これは小説だけでなく、ブロガーとして活動する方についても共通するだろう。釣り糸を垂れなければ、魚は釣れないのである。貴方が操作系の念能力者で、海を指差しただけで魚が勝手にクーラーボックスに入るのでもなければ。
悪くないぞ、自惚的読書も。上質を知る人のなんちゃらかんちゃらみたいに、本当に好きなものだけが残る。ああ、そういえば、007のゴールドフィンガーも何度か見たなぁ。
教養人は幅広く知識を持ち、読書家は数多くの書物を読破するだろう。それでも、私は横に広げようとは思わない。縦に深くありたい。
ショーペンハウエルがこんなことを言っている。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく」
やったね、読書嫌いのみんな。私たちは偉大な哲学者の援護射撃を得たぞ。たぶん現代に彼が生きていたら、私たちも背中で撃たれるような箴言をバシバシ残したのだろうけど。
自縄自縛というより自縄自爆
かかる意味において、私は「バーナード嬢曰く。」の町田さわ子に深い共感を覚えるのである。
そうなのだ。
私は「ずるして楽していただきたってーの」精神でいきたいのだ。ラティーノ・ヒートだ。
名作を読破した雰囲気を醸し出したいし、「ああ、マルケスね。悪くはないけど、フィッツジェラルドの方が好みかな」などとほざいてみたいのである。
そうして提示された数多の名作に対し、「そんな過去の名作さえ超える文章を生み出せるのだ、フハハ」と仰け反ってやりたいのだ。ならせめて原文で読めと言われたら、三度ぶふっぶふっと言いながら、おもむろにアベックラーメンを茹で出すだろう。私はスペイン語どころか英語だってろくに読めやしない。
そうそう、ここまでいろいろな書名を挙げたが、amazonへのアフィリンクを貼るのも面倒なので、適当に検索して欲しい。私の根幹には常に「面倒か否か」が付きまとう。もしも無条件に小説を書かせてくれ、しかも月賦で給料を払ってくれるのなら、私は喜んで従うだろう。
別に小説である必要はなく、それこそブログの記事でもいい。特に、こういう「毒にも薬にもならなかったな!」と言われそうな文章を書いていくのは得意である。人畜無害なのだ。
しかし、ソローキンがこう言っている。
「文学で私の興味をそそるのは、まさに狂気であり、奇怪であればあるほどよい。もっとも退屈なのは健全な作家、文化的に中庸の作家たちです」
退屈! 健全!
ああ、やはり狂気だ。私の作品には狂気が足りない。ただ自惚れだけが満ちている。そうして頭を抱えたところに、岡本太郎が時を超えて語りかけてくる。
「よく『どうしてそんなに自信があるんですか』とか、『自信に満ちていてうらやましい』と言われる。だが、僕は自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘い続けることなんだ」
もう大敗北だ。私は一個の自信過剰として、しめやかに閉幕するだろう。
だから、どんな出会いでもいい。「私はこれが好きだ」というものに巡り合ったら、絶対にそれを手放さないで欲しい。親しい友人の言動に阿諛追従して、「やっぱりこれってそんな良くないかもね」なんて言わないで欲しい。
好きなものは好きなのだ。
私はとても大好きなのだ。
この姿勢を堅持して欲しい。amazonの星がいくつだろうと関係ない。他人の評価は貴方の可能性を狭めたりしない。そこに自分があるのみだ。
読書の向こう側にあるものは、自発的な自己との対話なのだ。