生きる動機、生きる基準、生きる術策、「面白い」が未来をつくる
まあお聞き。
生きることがつらいと感じる。
そういう経験がありませんでしたか?
私にゃ、ありました。いや、いつだってそうです。そうなのです。
つらい。苦しい。全部投げ出したい。こういう想念がないといえば、まるきりの嘘になる。
でも、今すぐに死んじまうのは面白くないじゃねぇか。
今回はそういうお話。
希少難病と暮らす
私は「強直性脊椎炎」という難病に罹患しています。
昨年の厚労省の難病指定の大幅拡充によって、ようやく助成対象となりました。それまではあくまで「珍しい希少難病」で、特に支援等は受けられませんでした。(ただし東京都が単独指定しており、都民であれば医療費の助成などがありました)
症状は個々人で大きく左右されるものの、脊椎の強直(可動域が固まって動かなくなる)と全身の炎症です。
私の場合、常に体温が37度以上の微熱状態で、同じく常時100mをダッシュした後のような筋肉疲労に襲われ、波はあるものの全身の疼痛に悩まされている、背中から肩甲骨を経て腰にかけては激痛もある……といったところでしょうか。
つまり、いつでも「痛い・熱い・だるい」といったところです。まるで病気界の吉野家やぁ。
俺は難病! さらにうつ病!
エジソニズムでいこう
ネット上には「俺は童貞! さらに包茎!」という名(迷?)作ラップがあることが知られていますが、私を表すのはまさにこれ。
難病を背負いながらも食っていかにゃならんわけですから、就職してえっちらおっちらやってました。
実は何度か転職してて、現職に就く前には起業もしたんですよ。日本政策金融公庫からお金も借りて。
いやぁ……やっちゃいましたね!
「私は失敗したことがない。1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」
とはトーマス・エジソンの言葉として伝わりますが、私もいろいろな「こらあかん」道を見つけてきました。
しかし、起業の失敗は大きかった。結構な借金を背負いました。まあ、今も背負ってるんですけど。
ただ、お金の心配はそこまでしていません。自分なら何とか返せるだろうと楽観しています。
楽観していますが……。
出費は抑えた方が良い
自分の中での収入、スキルのマネタイズの手段、そうしたものが確立されていない場合、支出は極力抑えた方が良いですね。
冷静に考えりゃ当然なんですが、夢に向かって一直線だった私には、あまりにも強烈なカウンターパンチとなって返ってきました。
毎月の返済があるから、身の丈にあった職場を選べない。
結果、フルタイムで働くことになりました。
いやいや、本当の「結果」は無理してうつ病になったという現在かな……。
そこに至るまでも艱難辛苦がありましたが、そんなの綴ったところでどうにもなりゃしません。
だって、「面白くない」もの。
面白いから生きられる
まったく職場の皆さんには迷惑の掛け通し。
こんな自分に、生きてる価値のあろうものか。
そうは思えども、一寸の踏みとどまる心がある。それが「面白い」という線です。
本屋大賞を受賞した「村上海賊の娘」。
私はそこまでこの本を気に入っておらんのですが、それでもひとつ心に残ったものがある。それが泉州人たちの言う「おもしゃない(面白ない)」という言葉です。
現代の感覚にすると、「粋じゃない」「ノリが悪い」ということにもなるのでしょうが、一番はそのまま「面白くない」に通じるでしょう。
人生は……つらい、苦しい、全部投げ出して楽になりたい。
それでも、面白みがあるから生きていける。
高杉晋作は「おもしろき こともなき世を おもしろく」と詠みましたが、さてもさても、この世はそのままだと食えたもんじゃない味がする。そこに面白い面白いと笑って挑んでいけるような、そういう生き方。(下の句の「すみなすものは 心なりけり」まで含めても、素敵な言葉だと思います)
良い。
あこがれる。
そう言うだけなら簡単で、しかし何も変わりゃせん。
最近になって思うんです。偉人の言のまぶしさに目を細めているくらいなら、自分がそうなれるように歩み出さねばならないと……。
こうして新たな病を得たのは、それを教えてくれているような気さえします。
世界は動いている
日進月歩の科学は、私たちの生活を激変させるかもしれません。
いいえ、今までもそうでした。
何しろ200年前はまだ江戸幕府のころ。蛮社の獄にも見られる通り、言論の自由などまるでなかった時代。
100年前でもまだ大正。第一次世界大戦、いわゆる「すべての戦争を終わらせるための戦争」が巻き起こっていたころ。今の時節はちょうど名高きソンムのころですか。
文化文政年間に大正のような文化は想像し得なかったように。
大正年間に平成のような職場は夢想し得なかったように。
平成の今からは未来の働き方を考えるなど……。
まして、今の世はどんどんスピードアップしています。人工知能の発展はめざましく、2050年ごろには事務職から人間を駆逐し、タクシーなどを手始めに運輸業も征服し、こと単純作業において人間の居場所はなくなるとも言われています。
楽しくない、面白くない、そうして生きていった先にあるものが、「お前はこれからの時代無価値だ」というのでは、何とも悲しか話じゃありゃしませんか?
自分が「代替可能である」という恐怖
いや……。
無価値なだけならいい。
かの「荘子」の内篇にも書かれている通り、「価値あるもの」は早々に使い倒され、使い潰され、ボロ雑巾のようになって捨てられるだけ。無価値な方がよほど良い。長生きできます。楽しめる期間が増える。「自分ながらの生き方」なんてものぁ、人間にしかできん所業です。
裏を返せば、判子で押したような毎日なんてものを続けてたら、「代わりの利く生体部品」以上にゃなれません。日本国を先進国たらしめ、また老いゆく国を保たせるために走り続ける車輪の中のハムスター……。
上記の記事の通り、生体コンピュータの研究も進んでいます。医療分野で進歩が続けば、やがて軍事、さらに日常へと敷衍していくことでしょう。
人工知能に関しても、こういうニュースが有りましたね。
歴史が人間を担保する
私が本当に恐れるのは、自分という個体を証明する「人格」さえも機械が表現できるようになるのではないかということ。
すなわち、現代のような人間社会を無機物のみが構成した時、今ここにある私は存在性を失うのではないか、ということです。
そうした超優秀な「彼ら」になくて、私たちにあるもの、すなわち私たちが私たちであることを担保してくれるものは、「歴史」なのではないかと思うのです。もっと砕けた言い方をするなら、「思い出」でもいい。一個人が生まれ、育ち、歩んできた足跡までは、擬似人格は「表現」できても「複写」することはできません。
しかしながら……。
もし期待される通りに生き、思い通りに育ち、小中学、高校、大学と素直に進学し、一流企業にも就職戦線を乗り越えて就職した、そういう現代の国家が求める市民像に則った人間が、果たして「誰かと明確に違うと言い切れる歴史があるか?」という点には、私はそこはかとない恐れを抱くのです。
何しろ、善き市民は善き社会の歯車であることを目指すのが、現代の国家というものではありませんか。
それは日本において、「空気」や「雰囲気」や「同調圧力」といった表現形で浮き上がっていると思います。
あれね。ホントにきつい。
ここらへん、私は順応できとらんのだろうなあ、と。
AIに負けない面白さを求めて
でも、たぶん全体、総体、共同体に順応してしまったら終わりなんです。私たちはもともとバクテリアの尻尾の先に発生した有機物の成れの果てなんですから、純然たる生物活動を指向して作られることになるであろう無機生命体と比べたら、これはもう無価値も無価値、かないっこない。
だけど、無価値だからこそ生きられる。歴史があれば生きられる。
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
参考:名言DB
そう思っていたところで、かの岡本太郎がこのように言いました。
「ははあ……歴史だけではないのかもしれぬ」
と、私はここで前論をかすかに翻します。
これが、私の歴史です。
持論なんてものはありゃしません。それこそ身を縛って不自由だ。
どんなに体が痛くても。
どんなに心が萎れても。
今日が面白いと思えば、生きられる。
そうして、何物にも代えがたいモノになる。
ふむ。
どうやら私は荘子の影響が強いようだ。かくて目指すは無何有の郷ということでしょうか。
まだまだ道枢は遠く、物化を楽しむにも至らず。
せめて変わりゆく自分、変わりゆく故郷、変わりゆく世界を眺めながら、それに面白みを感じていきたいもの。
そうすりゃ、つらく苦しくやってられない人生も、これまた意外と喜楽に満ち満ちていて、輝ける未来が約束されている気さえしてくるのです……。