シャルリー・エブドが見せつける「自由」の形
流血の自由が歴史を作った国より
やりやがったあのヤロウ……。
と、本部さんのような顔にならざるを得ないニュース。
「タブーに『反発』ではなくタブーを『挑発』」するシャルリー・エブド。
襲撃事件を受けたのはもう1年以上前のことになるんですねえ。
ちなみに、日本も風刺の対象になっています。
「フクシマのおかげで相撲がオリンピック種目になった!」と眼球のこぼれ落ちそうな放射線被害者を描写。
「2020年東京オリンピックでは放射能を集めています」と放射性物質に汚染された東京を描写。
今回問題になっているのはイタリアの地震の風刺画
被災者が流血する様をトマトソースに見立てて「トマトソースのペンネ」。
火傷や打撲症の様を「ペンネのグラタン」。
建物に押しつぶされた被災者を「ラザニア」。
一言で表すなら、「趣味が悪い」。
当然、批判を受けたわけですが、それに対する回答がこちら。
「イタリア人! お前らの家を建てたのはシャルリー・エブドじゃなくてマフィアだからな!」と被災者が一言。
やっぱり趣味が悪い。
こんな週刊誌を誰が買ってるの?
ざっくり列挙してしまうなら。
・低所得者層
・低学歴層
この2つが大きな柱。
現代社会において「程度が低い」とされてしまう層が、主な購買層だと言われています。この過激さが受け入れられるわけですから、タブロイド紙やゴシップ誌が好きな層よりさらに「アレ」な人たちに受けているということになりますね。
ん?
なんか歴史上でもありましたね、こういう新聞……。
エベールだこれ!
なお、フランス革命期に右派を煽りに煽った極左の彗星エベールは、壮絶な権力闘争の嵐に巻き込まれてギロチンで首を落とされています。デュシェーヌ親父の廃刊は死をもって訪れたわけですね。
いつの時代でも、所得格差や知識格差がこうした形で噴出するのは避けられないということでしょうか。
風刺する自由と批判する自由
そんなシャルリー・エブドにも表現する自由を認める。これが自由の本義であり、フランスの三色旗が保証するものです。
しかし、その自由にも別の制限があって……。
襲撃事件の1週間後には、こういう事態も起きていました。
風刺する自由を風刺することも認められるはずだけれど、それは直接的には「テロ賛美」に当ってしまう、と。
実に口がひん曲がる大人の事情を感じますが、これが2016年も移民問題や恐るべきテロに晒されているフランスの現実なのかもしれません。
行き過ぎた風刺は暴力の肯定になる。
なるほど、それは確かに恐ろしい現実ですが、たとえ直接的な暴力の肯定にならないにしても、間接的な暴力の肯定になるのはどうなのだろうという話になります。
しかし、そうなるとまた問題が出てくる。間接的な暴力とは何か。そんなものを考え始めたら表現の自由は死ぬのではないか。
実際、規制規制の方が恐ろしい事態を招くでしょうね。
前例の援用援用で、「悪書追放運動」は再び起きるでしょう。「清らかな本だけに囲まれた美しい環境」とやらに期待する層は、いつの世にも一定数存在しますし、またそれを完全に拒絶することはできませんから……。
だから、せめてシャルリー・エブドの風刺画には「おもろないんじゃ!」という感想を投げつけるべきなのかもしれません。
こう考えると、ビゴーの風刺画はすごかった……。