【妄言】プロブロガーという響きは悪いと考えている
こういうホットエントリがあった
一番最初に書いた記事がこれだったのですが、記事を書いてすぐに何人かのブロガーさんが反応してくれて、「それはむしろ不自由に向かっているから」とありがたいアドバイスをしてくれる方なんかもいました。
そんな中、ブログを書き続けてみて思ったのが「ブログを書き続けていれば結構簡単に自由を手に入れられそうだな」という事だけでした。
これらの文章から始まる一連のエントリは、各所で様々な反響を引き起こしたようだ。
同記事タイトルで検索してみたところ……。
開始5か月目で1000記事を更新、12か月目で月間35万PVと10万円を達成。
というごついプロフィール持ちのポジ熊氏が反応していた。
僕、サラリーマンだけど自由ですよ。就職しても自由。
そう感じる根拠は、精神的に楽だからです。職場の人といて楽しい。関心を寄せて、色々な話を聞けるのがなによりも貴重な体験です。自分の脳だけで考えるには世界は広すぎます。色々な人の色々な考えを聞いて見識を深めるという意味で、定期的に人と会うという状況をアドバンテージにできる。たまりません。
こちらの記事もこうした刺激的な文章から始まる。
就職することが悪であり不自由……という最初の記事の考え方に対し、真っ向から反論している形になるだろう。
真里谷はこう考える
見出しにしておいて何だが、自分の名前を一人称にするのはかなり背筋にビビっとくる。
やはり名前=一人称が許されるのは美少女とジェイ・ザルゴくらいではなかろうか。
The Elder Scrolls V: Skyrim SPECIAL EDITION 【CEROレーティング「Z」】 - PS4
- 出版社/メーカー: ベセスダ・ソフトワークス
- 発売日: 2016/11/10
- メディア: Video Game
- この商品を含むブログ (3件) を見る
えっ、ジェイ・ザルゴを知らないって?
それは良くない。
ジェイ・ザルゴは大成するよ。それは間違いない。
さて、スカイリムネタは置いといて。
私が本件に関してどんな考えを抱いたかというと、「好きにやれ。どうせ反対者はお前のケツを持っちゃくれん。行けるところまで行ったれ!」である。
どうだろう?
なんて無責任な奴だろうと思わなかっただろうか?
そうなのである。私は実に無責任なのである。あらゆる責任から解放されたこの立場を楽しんでいるからこそ、今、一人の若者がプロブロガーなるものへの道を歩みだそうとすることを応援している。
考えてみるといい!
数年前に話題になったこの動画を見たことがあるだろう!
見ていないなら、ここで見ていけばよろしい!
実に奇妙……実に不気味……実にグロテスク……。
そんなものが嫌だから、ブログで生活を作っていく。そういう選択肢があることは肯定されて然るべきではないか。
幸いなことに、今は平成の世なのだ。
血と汗と涙でもって高度経済成長に邁進した昭和の時代とは違うのだ。
私も新卒カードを捨てた人間だ。
留年したのが最大の原因だ。それは認める。
しかしながら、そもそもあんな気持ちが悪く、だらだらとしていて、べたべたとしていて、ひたすら人生の穴倉のぬめり気だけを集めたような就職活動というものが、心の底から嫌いだったということも事実なのである。
「それが日本の就活なのだ。気合と根性を確かめる儀礼なのだ。敗残者は黙っていろ」とおっしゃる方。貴方は正しい。私は敗残者だ。だが、まだ生きている。生きているがゆえに、この口をつぐむことはできない。あと少々お付き合いいただきたい。
数字は貴方を保証するか?
ブログ開始から 月 ページビュー数 一ヶ月目 2016年7月 7,178PV 二ヶ月目 2016年8月 19,695PV 三ヶ月目 2016年9月 10,104PV 四ヶ月目 2016年10月 4,543PV 五ヶ月目 2016年11月 7,093PV 六ヶ月目 2016年12月 9,937PV 七ヶ月目 2017年1月 43,527PV 八ヶ月目 2017年2月 18,350PV
最初の記事からの引用である。
プロブロガーを志向するには心もとない数字だ。
何しろ、月間4万PVならこんなネットの片隅にあるブログでさえ達成している。
だが、これらの数字の裏には「少ない記事数」という要素がある。これは大きな武器だ。それだけキャッチーでセンシブルな記事が書ける証左である。
私は人の格を決める一つの要素として、「年下を素直に認められるかどうか」というものがあると考えている。
この数字を叩き出したブログの主たるハチ氏はほぼ間違いなく私より年下だろう。
だが、すでにこのように私以上の実績を叩き出している。その点をもって、私は彼ないし彼女のことを尊敬する。
ブログの運営について「PV」という評価基準を絶対のものとして位置づけるなら、私はどれだけでも頭を下げるべきだろうと考える。なんなら教えを乞いたいくらいだ。
だから、月間35万PVのポジ熊氏には、脆くなった背骨が折れるくらいに頭を垂れることになるだろう。
まったくすげぇな!
35万PVってとんでもない話だ。山陰地方の県レベルである。
え、それは偏見? 失礼しました。
ともあれ、数字はそれだけ多くの人に支持されていることを示している。あるいはそれだけの人の「不支持」を集めている場合もある。
どちらにせよ、「無関心」でないことは確かだ。数字は中の人の人格までは保証していない。
プロブロガーなるものに感じる響きの異様さ
それにしても、と思うのである。
プロブロガー。
響き悪くない?
Twitterでも名前の後ろにつけている方が多いが、響きも悪ければ見た目も悪い。
プロブロガー。プロブロガー。助っ人で来たのに2軍でも炎上する外国人投手みたいだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
要はブログのプロフェッショナル、専業ブロガーであるからプロブロガーと言うのだろう。
にしたって、言葉を仕事とする方々が「プロブロガー」なる奇妙奇天烈な形容に何とも思わないのは、少々不感症すぎやしませんかと思うのだ。
プロブロガーだぞ!?
戦車戦でもやる気か!
前段のオチは予想できなかっただろう。わはは。
しかし、まだプロホロフカの方が良いのは事実である。言葉にメリハリがある。
なのにプロブロガーは「フ」と「ロ」が被っているのだ。風呂に入っとるんか、お主は。
私はこうした生き方、稼ぎ方にはもっと他の呼び名があると考える。
何かって?
簡単さ。「作家」だよ。
ブロガーよ、作家たれ
- 作者: ディーン・R.クーンツ,Dean R. Koontz,大出健
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 文庫
- 購入: 70人 クリック: 386回
- この商品を含むブログ (94件) を見る
おかしな顔をしている方もいるだろうか。
だが、文字で飯を食っているのだ。作家と呼べない道理があるだろうか。読む人に夢と価値を与えているのだ。これ以上に作家らしい存在もいるまい。
これは私が作家志望であることと強く関連しているだろう。なろうとしてなれない駄文を書き散らしてきたのもあるだろう。
ついでにブログのPVも志望止まりである。そりゃあ作家と名乗りたくもなるさ。
が!
そういう余事を切って捨てたとしても、「プロブロガー」はやめるべきだ。
こんなに気持ち悪い言葉はそうそうない。単に「ブロガー」か「作家」か「インターネットビジネスマン」で充分である。
そもそも、自由を得ようとしているのに目指すところがプロブロガーじゃ、それは儀礼化した就職活動と何が違うというのだろうか?
単に在宅業の一つとしてブログを選ぶのと何の違いがあるのだろうか?
もちろん、違いなどありやしない。
だから、私はブロガーになるのを初めから否定してはいない。これも就職なのである。社会人になる入り口の一つなのである。
私は悪人である
こうもハチ氏を擁護するのは、私が「悪人」だからという理由に尽きる。
ハチ氏は幸福だ。良い人が道を改めさせようとしている。
社会は社会を知らない人間に厳しい。
私だって厳しくする。
例えば、メール。
○○様
お世話になっております。××です。
ナンタラカンタラ中略。
どうぞよろしくお願い致します。
署名
こういう書き方になっていない人間は、「こいつ勤めたことがねぇな」と感じて警戒する。
ちゃんとやり取りができるのかなと心配する。
安心してほしい。世の中そこまで狭量な人間ばかりではない。私の心がルクセンブルク大公国の領土くらい狭いだけである。
まあ、ヴァチカンやサンマリノほどじゃあない。
すでにバレていると思うが、私は働くのが大嫌いだ。普通の企業というものにとことん合っていない。超夜型人間のため、午前中は全く頭が働かないのが大きい。とにかくパフォーマンスが落ちる。
結果として、多くの方に迷惑をかけてやめることになるのである。
現代日本でなくとも、私は現代国家においては落伍者である。
その落伍者だからこそ、悪道へ引きずり込む。
この道は良いぞ。進めや進めと声をかける。
善き人来たりて笛を吹く
- 作者: 横溝正史
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 1973/02/20
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 44回
- この商品を含むブログ (67件) を見る
ハチ氏に声をかける人がいる。
「社会はそんなに甘くないぞ」
「就職はしておいた方がいいぞ」
「ブログと両立させて収入の柱を増やした方がいいぞ」
そのほとんどが善意から出たものだと思う。
だから、悪人である私はささやくのだ。
「いいかい。世の中には『地獄への道は善意で舗装されている』という言葉があるんだよ……」
ちなみに、「地獄への道は善意で舗装されている」を字義通りに取ると誤用になるというのが、最近の有力説らしい。
しかし、私はあえて誤用と知って使いたい。
もしも自分にこの言葉が向けられていたとしたら、たぶん彼らのことを死ぬまで恨んだだろう。
彼らは働いている。それも何の問題もなく。
私にとっては大問題なのだ。体は合わない。障害まで抱えている。かくて人は落伍する。
ハチ氏にも、自分の判断でもって未来を決めてほしいと考えている。
たとえそれがレミングのごとく断崖絶壁に向かう最悪のルートだとしても、だ。
助言を容れるも拒むも自由。
そうだ。自由とは目的でもなければ結果でもなく、過程なのである。
かつての日本にはなかったものが、今はある。ならば、ぜひとも自由に決めてもらいたい。
堕落せよと彼は言った
だが、これだけは言っておこう。
自由な過程の先にあるものが自由とは限らない!
不肖なる私を例にあげるなら、治療不可能の難病を抱えた上に職歴もバラバラな不具合ばかりの社会人、しかも今や病状が悪化して無職……。
そういう結末もありうるということだ。
没落する身を助けるのは人脈、コネクションである。
私にはそれがほとんどない。
そして、たぶん過去に戻れたとしても、やはり同じ道をたどるだろう。それほどに働くのが嫌いなのだ。
よろしいか。私は悪人である。
私が貴方の判断を肯定し、貴方の背中を押すのは、私が気持ちよくなりたいからだ。
どういうことか?
貴方が成功したとしよう。私は既存の概念に囚われず、貴方の成功を喜べる人間として満足するだろう。
貴方が失敗したとしよう。私は数多の失敗者と同じ道へと落ち、貴方がこの場所へやってきたことを喜ぶだろう。
そういうことだ。
良い日を!
やって後悔するのもやらないで後悔するのも、同じ後悔に変わりはない。
ならばやって後悔しろというのは簡単だが、後悔しない選択肢を選ぶに越したことはない。
では、熟慮すれば未来が見えるのかというと、そうでもない。
その場所でしか見えない風景があるならば、たとえそこまでの道が峻険であるとわかっていても、直接行ってみるしかないのだ。
良い日を!
私にはただその一言しか言えない。
病を得てから、1日1日がとても貴重に感じられるようになった。だから、この言葉だ。
貴方は貴方の反対者が死んでも悔しがるような偉業を成し遂げるといい!
そうあってこそ、すばらしい成果も得られようものだ。
ゆえに、私は叫ぶ。
プロブロガーなんて目指すな!
そんな気持ち悪い呼ばれ方をするくらいなら、もっとすごいのを目指してやれ!
自分から型にハマりに行ってほしくない。ただ願う。
引用文も含めて5000字を超えてしまった。このへんにしておく。
本記事を最後まで読んでくださった方。
貴方にも良い日を!
私たちの時間はあまりにも短い。
人生の盈虚は月のそれと比べて極めて不安定である。
いつまでも満月ではいられないが、太陽に照らされ続けていたい。
……そういう思いで、今日も月下を歩いていく。
さあ、とりとめのないこの記事も終わりだ。
良い日のために、寝たり起きたり書いたり考えたりしようじゃないか!