ゴジラはどこへ向かっているのか
ゴジラはどこから来て、どこへ行くのか
小さいころから疑問に思っていた記憶がある。
ゴジラはどこから来て、どこへ行くのか?
小学生の自分なら、「海か火山から来て、海へ帰る」と答えていたはずだ。
山か、海か。
すごいぞ、文学作品みたいだ。あるいは山海経(見たまんま)。
ともあれ、疑問には思っていた。あれはまさしく災厄だったし、天災の象徴として描かれていた。
私のゴジラ観は平成ゴジラ、とりわけvsシリーズの「ビオランテ」「キングギドラ」「メカゴジラ」「スペースゴジラ」が記憶に根強い。
(モスラはどこ行った?)(デストロイアもね?)
ビオランテは天に昇る沢口靖子まで明確に覚えているし、メカゴジラやキングギドラはフィギュア(磁石を近づけたらドギャーンと吼える)も買ってもらったし、スペースゴジラは今でも実家にポスターが飾ってある。
ゴジラは暴力であり、理不尽であり、心震える神的存在だった。
いつもクリスマスには地上波で放映があって、必ずVHSで録画した。
「昔は年末といえば忠臣蔵があっててね」
と親から聞いたのもセットで覚えている。
昭和ゴジラの衝撃
ケーブルテレビ経由で、スターチャンネルが入ってきた。古今の映画を放映するチャンネルで、これは今も存続している。
当然、私が生まれる前に作られた昭和ゴジラも放映していて、見るわけだが……。
・シェーをするゴジラ
・なぜかみんなの怪獣王になってるゴジラ
・タバコを吸うミニラ
・怪獣総進撃でえらい目に遭うキングギドラ
地球を守る存在としてのゴジラというギャップに、頭がぐわんとなったのを覚えている。
どうしたんだ、ゴジラ!
バズーカを直接口の中にぶち込まれていたきみはどこへ行ったんだ!
もちろん、その時点ではどこへも行かないし、行っていない。当時の私は時系列という概念を正しく理解していなかったのだろう。
そんなゴジラも上記のようにアニメ映画になるという。
シン・ゴジラは初代ゴジラに準じた天災であり神がかったものとしてのゴジラのようだが、アニメ版はどういう描写になるのか……。
シン・ゴジラは熊本市で上映しておりません
そう、「ようだが」止まりなのである。
非常に残念なことに、熊本県ではシン・ゴジラを1館でしかやっていない。それも県庁所在地の熊本市ではなく、隣の宇城市なのだ。
「鹿児島県や宮崎県ですら2館上映なのだぞ!」
とお山の大将ぶりを発揮しても仕方ない。
第一、その考え方でいくと九州の盟主たる福岡県では16館上映である。そらあんた勝ち目ないですがな。
どうしてこんなことになったのかというと、2016年4月に発生した熊本地震の影響だ。おかげさまで市内中心部の映画館やシネコンはどこも閉鎖中である。
おとなしく「ワンピース」か「帰ってきたヒトラー」でも見ておけと言わんばかりだ。どっちもそれはそれで気になるけど。
少なくとも、ゴジラが熊本市に向かってきていないことは事実なようである。
ゴジラ、その静なるもの
考えてみれば、本当にゴジラはどこかへ向かっているのだろうか?
私たちは映画鑑賞という消費行動を取ることによって、あるいはゴジラという映画シリーズを能動的に視聴することによって、かの怪獣王に出会うことになる。
さながら名勝古刹を訪ねるようなもので、ゴジラが向かってきているというよりは、私たちが向かっていっているという方が正しく感じる。その視点の移動によって、初めてゴジラが動いているように見える。やったな。リュミエール兄弟より昔に戻ってしまいそうだ。
ゴジラが自然の象徴であるとするならば、なるほど、それを受け取るために「向かう」のは私たちの方であろう。
いや、受け取るかどうかすら定かではない。収奪や破壊するために動くのかもしれないし、遭難してしまうことだってあるだろう。
こうなってくると、例のニーチェの言葉に被せたくなる。
「私たちがゴジラへ向かっている時、ゴジラもまた私たちに向かってくるのだ」
其は触れるべきものにあらず。近寄ることなかれ。
おお、何だか神話っぽい形になった。とても良い締めだ。
ただ「神話」というフレーズだと平成ガメラになってしまいそうなのが気がかりではある。爆風スランプにやられてしまった。
ゴジラは海から来て、海へ去っていく。
まるで人間がそうであるかのように。
そんな「言ってやった言ってやった」というドヤ顔で本エントリを終わらせよう。